「きっかけ」(原×斑、笹×斑)

 思いがけず、5時限目の講義が休みになったので、部室で休もうとやってきたのだが、ドア
1枚隔てた向こう側で起こっている何かに気付き、身動きがとれなくなってしまった。

 ガタガタとかすかに机が揺れる音、耳を澄ませば聞こえる程度のか細い、けれども荒い息。
聞き覚えのある、その吐息。

 ごくりと息を飲む。
 誰も来ないのを確認して、さらに耳を澄ませてみた。
「嫌だ。い・・・や、だっ」
 抵抗を表すその言葉にかすかに安堵を覚えた自分に、驚いた。だが、その言葉を聞いたから
といって助けに入る事もできずに、ただその情事の音に聞き入ってしまう。目を瞑り、中の様
子を妄想する。凄まじいほどの背徳感に襲われるが、その場を去る事もできず妄想を中断する
事もできず、ただ立ち尽くすのみだった。

 どれだけそうしていたのか、情事が終わった事を告げるように中が静かになった。急いでそ
の場を離れた方がいいと気付いた時にはもう、ドアが開いていた。

「あれ?笹原君だっけ?久し振り。」
 嘘臭い笑みを浮かべながら出てきたのは、原口さんだった。
「何?いつ来たの?」
余裕のある顔で問い掛けてくる。ここで慌ててはいけないと思うのだが、貫禄負けしているの
は、自分でもよくわかった。それでもまさか本当の事を言うわけにもいかないので、もちろん
嘘をつく。

「今来たとこス・・・。」
「ふうん。」嘗め尽くすような目で見ながら原口さんは軽く頷き、
「そっか、ならいいんだ。じゃあ、またね。」
 と、これまた嘘臭い笑いを残して帰っていった。あの顔は、嘘なんかお見通しという顔でな
んだか無性に恥ずかしいような悔しいような気分になる。その余裕のある後姿を見送りつつ部
室に入ると、中は昼間だというのに、カーテンが閉まっていて薄暗く、斑目さんが慌てた表情
をしながら片手を挙げて、

「よう。」
 と、声をかけてきた。
「こんにちは。」
何事もなかったように、何も知らない振りをして挨拶する。薄暗い中にいるのが居た堪れなく
てさらに声をかける。

「あれ?暗くないですか?外はいい天気ですからカーテン開けましょうよ。」
「あ、ああ、そうだな!うん。やっぱ、部屋は明るい方がいいよなぁ!」
 こちらが悲しくなるほど明るい声で斑目さんはそう言うと、景気よくカーテンを開けた。
 さっと部屋が明るくなり、先ほどまで見えなかったものが見えてくる。机の上の真新しい染
み。おそらく斑目さんの唾液なのだろうと思い当たり、気まずくなって目を逸らす。

 そうと気付くと、部屋中に溢れんばかりの情事の後の残り香に眩暈がしてくる。先ほどまで夢
想していた登場人物の一人に目をやるとその腰の細さや首の細さばかりが目につく。

 彼も、残り香に気付いたのか、
「いや、なんか暑いな。ちょっと窓でも開けるか?」
 と、慌てているのを悟られないようにしながら窓を開けている。
「さ、て、と。なんか読むかな〜?笹原も、何か読むか?」
 白々しくそう聞いてくる斑目さんが可哀想になりながらも、そっと断った。
「あ、そお?」
 断られたのがショックなのか、部屋の中の空気が不穏なのが気になるのか、落ち着かない様子
で斑目さんは、そばにあった雑誌に目を通し始める。そんな斑目さんの様子を伺いながら、自
分の中で高くなり始めた熱を一生懸命抑えてみる。しかし、熱は収まるどころか、高くなるば
かりで途方にくれてしまう。

(俺は、斑目さんの事が好きなのか?)
 まさか。と思う。しかし、その細い腰を思い切り抱いたらどんな反応をするのだろうとか、
先ほどまでたててたか細い声で自分の名前を呼ばれたらどんな気持ちだろうとか想像してしま
う自分を否定することなど、到底できそうもなかった。

「今、来たとこ、なんだよな?」
 確認するように、斑目さんが声をかけてきた。目は雑誌に落としたままだ。
 そこで、雑誌が先ほどからまったくめくられてない事に突然気付く。まったく余裕が無いのだ
と、先ほどの情事がばれていたらどうしようかと心配で押しつぶされそうな彼の心中に気付い
た時、堪らないほどいとおしくなった。

「ずっと、前からいました。」
 子猫のように頼りない彼の心を壊すように、正直に告白した。 
「え?」
 驚いた顔をこちらに向ける。困った顔をされてなんだか泣きたくなってきた。
「嫌なんだったら、もう、あんな事しないでください。
 もう、原口さんとするのは、やめてください。」
 思わずそう言ってしまい、心臓をばくばくさせながら彼の反応を見ると、斑目さんは、先ほ
どよりももっと困った顔をしていて、しまいには目を泳がせ始めた。あんなに嫌がっていたの
に。斑目さんがあの男を好きなはずがないのに。

「俺が、守りますから。」
 切り札のように、はっきりと言う。
 それを聞いた斑目さんは、嬉しいような、困ったような、悲しいような不思議な表情をして、
これまたはっきりと言った。

  

「無理だろ?」


そしてパタンと本を閉じると、「じゃあ。」と言いながら、斑目さんは部屋を出て行った。
 あとに残された自分は、あまりにもはっきりそう言われたのがショックなのか、それを追い
かける事もできず、呆然と椅子に座り込んだまま彼が去って行くのを見送ってしまった。だん
だん情けなくて堪らなくなってきて、机に突っ伏して後悔した。

 激しく後悔してやっと悟った。 
「俺、斑目さんが好きなんだ・・・。」
 そう、強く認識して、思った。


 たとえ、無理でも、斑目さんを守ろうと、できるだけそばにいさせてもらおうと、そう思った

                                     終わり(05/10/04